古墳時代(倭と東アジア)
朝鮮半島の国々・地域
加耶諸国
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概略
- 加耶諸国は1世紀から6世紀中頃にかけて存在した朝鮮半島の中南部(現在の慶尚南道とその周辺)の小さな国々。
- いろいろな名前で呼ばれる。
- この地域は鉄資源と良好な港に恵まれ、倭国(古代日本)はそこから船で鉄資源輸入した。
- 加耶諸国は新羅や百済に併合され、562年に滅亡した。
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金官加耶
- 3世紀、慶尚道地域は馬韓の一部と辰韓の一部を含み、それぞれの連合体は十二 の国々で成り立っていた。そのうちの馬韓の一国が金官加耶に発展した。
- 金官加耶に関する記録はとても限られているなか、『三国遺事』に引用されている「駕洛国記」が貴重とのことである。
- 『三国史記』の記事をもとに、金官国の滅亡は532年のことと一般に考えられている。
- 金官加耶では、大成洞古墳群から多くの鉄鋌(鉄製品の材料)が出土し、5世紀半ばから6世紀初めの製鉄集落も見つかっている。その発展の基盤は鉄生産であったと考えられている。
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倭と加耶との交流
- (参考:都出2011)
- 慶尚南道と全羅南道を含む朝鮮半島の南岸に面する地域では、墳墓や集落遺跡で4世紀後半から5世紀に作られた倭製の土師器と青銅器がみつかっている。
- その地域にはかつて日本と交流した加耶があった。
- 一方、日本列島においても、同時期の加耶産の土器や鉄鋌の出土量が急増している。
- このことは倭と朝鮮半島南部、特に加耶、との交流が当時頻繁であったことを意味する。
- 加耶は倭人にとって重要な鉄の供給地だったと考えられている。
百済
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百済の概略
- 四世紀半ば,馬韓北部に成立した。
- 四世紀後半(366年か367年)に、百済と倭とが、軍事的同盟関係に入ったと一般的にみられている。それを記念して作られたのが七支刀である。その関係は基本的に6世紀初めまで続いた。
- 475年に、高句麗に圧迫され半島西南部のへ熊津(ゆうしん、ウンジン)に移動した。
- 538年に、泗沘(しび、サビ)に遷都した。
- 王族は高句麗と関係があるといわれている。
- 百済は、日本との関係が深く、仏教など大陸文化を伝えるなど,日本古代文化の形成に大きな影響を与えた。
- 660年に唐・新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされた。
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七支刀
- 奈良県天理市石上神社所蔵の古代の鉄剣。長さ75㎝。刀身の左右に三本ずつの枝刀が出ている。
- 1870年代、石上神宮の宮司が剣の側面にわずかに光る金象嵌に気づき、錆を落としていくつかの文字を解読した。
- 369年、近肖古王の太子がその剣を作った。この年、百済は高句麗との戦争中で、太子は彼の軍隊の先頭に立っていた。
- 371年、百済の王と太子は平壌城を攻撃し、高句麗の王は戦死した。
- 『日本書紀』には372年に百済が七支刀を倭に献上したと書いてある。
- 百済は高句麗との決戦に備えて倭との同盟を意図していたようである。
新羅
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新羅の概略
- 朝鮮最初の統一王朝。
- 4世紀半ば(356年)、朝鮮半島東南部の辰韓12ヵ国を統合して斯盧(しら)国が新羅を建国した。
- 7世紀半ば、新羅は唐と同盟し、百済と高句麗を滅ぼしたあと朝鮮半島の統一を達成した。
- 新羅は唐に倣って、政治の中央集権化をすすめた。
- 935年、敬順王(新羅最後の王)は高麗の王建に服従した。
高句麗
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高句麗の概略
- 古代朝鮮の三王国の一つ。
- 扶余族の一支族の王、朱蒙が紀元前1世紀までに建国した。
- 313年、高句麗は楽浪群を滅ぼし、朝鮮半島北部を領有した。
- 427年、平壌に遷都。
- 高句麗は、4世紀末から6世紀にかけて、広開土王と彼の2代の後継者の時代に最盛期を迎えた。
- 668年、高句麗は唐と新羅の連合軍に敗れた。
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好太王碑
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414年、高句麗の長寿王が6.3mの石碑をたて、彼の父(好太王)の功績を刻んだ。次の内容を含んでいる。
- 399年、新羅が倭の侵入を理由に軍事介入を求めたこと。
- 400年、好太王は5万人の軍隊を派遣し、韓韓国まで倭軍を追い詰めたこと。
- 好太王は64の城と1,400の村を奪取したこと。
- 好太王が奪った城と村の大半は百済のものだった。
- 高句麗に敗れたあと、倭にできることは中国との代行関係に新しい道をみつけることだけだった。
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414年、高句麗の長寿王が6.3mの石碑をたて、彼の父(好太王)の功績を刻んだ。次の内容を含んでいる。
倭と朝鮮半島との関係
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倭と朝鮮半島との関係の概略
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金官加耶をとりまく状況と七支刀や好太王碑に書かれていることを考慮すると次の事柄は事実だったと考えられる。
- 古墳時代以降、鉄を産出し輸出する加耶諸国は倭にとって生命線だったこと。
- 倭では古墳時代だったとき、高句麗、百済、新羅、そして加耶諸国の間には緊迫した関係が存在し、倭と朝鮮半島との関係も高かったこと。
- 4世紀の後半に高句麗と対峙していた百済が倭に七支刀を贈ったことを考えると、朝鮮半島南部における倭の存在感はそのころすでにかなり高かったこと。
- 5世紀初頭頃に倭がその軍事力を実際に行使したこと。
- けれども、その二つの記録には倭の国内状況に関することが何も含まれていないので、古墳時代の国内状況を探るには別の方法を使う必要がある。
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金官加耶をとりまく状況と七支刀や好太王碑に書かれていることを考慮すると次の事柄は事実だったと考えられる。
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4世紀末の大きな前方後円墳
- (参考:都出2011)
- 4世紀、中国が五胡十六国時代に入り不安定になった。
- 4世紀から5世紀初頭にかけて、倭は朝鮮半島との交流を活発に行った。
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そのことを反映して、瀬戸内海沿岸や日本海沿岸に大きな前方後円墳が築造された。
- 鋤崎古墳(福岡県 墳長62m)
- 五色塚古墳(神戸市 全長194m)
- 金蔵山古墳(岡山県 墳長165m)
- 六呂瀬山古墳(福井県 全長143m)
- 神明山古墳(京都府 墳長190m)
- 北山古墳(鳥取県 全長110m)
- これらの古墳は朝鮮半島との交流に適した港を持つ地域にある。
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朝鮮半島から日本列島に渡来したもの
- 古墳時代、倭(古代日本)には朝鮮半島からさまざまなモノやコトが導入されたと考えられます。手に入る情報をもとにそのリストを掲げておく。
- 稲作
- 稲作の日本への到達経路にはさまざまな説があるが、考古学的には、中国の河南地方から北上して、山東半島から朝鮮半島南部につたわり、九州北部に伝来したとする説が有力。稲作は、弥生時代のあいだに本州北端まで広がった。
- 鉄器
- 約6,000年前にすでに隕鉄が使われていた。約4,000年前に、アジア西端部で、鉄の精錬が始まった。中国では前5世紀頃、精錬した鉄が普及した。朝鮮半島では、紀元前300年頃、鉄器が普及した。日本列島では、弥生時代に鉄器が導入された。
- 須恵器(すえき)
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須恵器は、高温(1,000度以上)で焼成する陶製品。古墳中期、朝鮮半島加耶地方の技術者が渡来して生産が始まった。大阪府南部の陶邑(すえむら)で5〜6世紀に集中的に作られた。この技術が日本の陶磁器生産につながった。
- 竈(かまど)
- 竪穴住居の壁際に粘土で設置する竈は、5世紀前半に朝鮮半島から伝わり、炉のかわりに急速に広まった。
- 甑(こしき)
- 甑は米などの食物を蒸す調理道具。古墳中期に朝鮮系の須恵器製が登場した。祭のときなど特別な時に使われたらしい。
- 牛
- 弥生時代の遺跡からウシの骨などが見つかっているが、その数は少ないようだ。
- 牛が日本で広まったのは5世紀半ばだった。農耕、灌漑などの土木技術、乗馬などを伝えた朝鮮半島からの人々が牛も連れて来たとみられている。
- 馬
- 馬は古墳時代に朝鮮半島から導入されたと考えるのが妥当のようだ。4世紀の終わり頃、高句麗の強力な騎馬兵と戦ったあと、戦いに馬を使う必要がると倭の人たちは考え始めたにちがいない。
- 機織り
- 地機は朝鮮半島からつたわったと考えられているが、その時期はよくわからない。
- 暦法
- 暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わった。ヤマト王権は暦法や天文地理を学ぶために、僧を招き604年に日本最初の暦が作られたと伝えられている。
- 仏教
- 6世紀の中頃(538年説が有力)、欽明天皇の時に、百済の聖明王が仏像と経典を遣わしました。
- 土木技術
- 比較的大きな河川に堰を設けて取水する方法が確立するのは渡来人の新たな技術によるものと推測されている。
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新しい技術を持ち込んだ渡来人
- 上述の朝鮮半島からの新しい技術は渡来人が日本列島に持ち込んだ。
- 5世紀の倭では、朝鮮半島由来の技術が手工業を革新するために頻繁に使われた。
- 古代日本への最初の移民の波は4世紀後半から5世紀前半にあった。渡来人はその後も途絶えないで、7世紀後半の百済からの遺民や新羅からの難民まで続いた。
- 新しい開発技術を持つ渡来人もいたにちがいない。新たな土木技術の到来が5世紀にあることも考古学的に疑問の余地がない。
倭と中国王朝の関係
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倭の五王
- 中国の正史には、5世紀の倭の五王による遣使についての記録が書かれている。
- 王たちには日本列島だけではなく百済・新羅を含む朝鮮半島南部での軍事的支配権の行使を宋王朝に認めさせるねらいがあったと言われている。
- また、実際に、王たちは「将軍」として任命されている。
- 確実であったと考えられている年・王名・称号は次のようになる。
| 年 | 王名 | 称号 |
| 421 | 讃 | - |
| 425 | 讃 | - |
| 430 | - | - |
| 438 | 珍 | 安東将軍 |
| 443 | 済 | 安東将軍 |
| 年 | 王名 | 称号 |
| 451 | 済 | 安東大将軍 |
| 460 | - | - |
| 462 | 興 | 安東将軍 |
| 477 | - | - |
| 478 | 武 | 安東大将軍 |
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倭の五王の比定
- 「倭の五王」の頃の天皇等名、その陵、現在の比定などをまとめておく。
| 代 | 諡号 | 古墳(治定) | 比定など | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 14 | 仲哀 | 岡ミサンザイ? 245m、藤井寺市 |
- | 倭建命の御子 |
| - | 神功皇后 | 五社神 267m、奈良市 |
仲哀大后、応神の母 | 遠征して新羅を破る? | 15 | 応神 | 誉田御廟山 425m、羽曳野市 |
「讃」説あり | 仲哀の御子 |
| 16 | 仁徳 | 大仙陵 486m、堺市 |
「讃」・「珍」説あり | 応神の御子 |
| 17 | 履中 | 上石津ミサンザイ 365m、堺市 |
「讃」説あり | 仁徳の御子、大仙 陵より先の造営か? |
| 18 | 反正 | 土師ニサンザイ 290m以上、堺市 |
「珍」説あり | 仁徳の御子 |
| 19 | 允恭 | 市ノ山古墳 227m、藤井寺市 |
「済」に比定 | 仁徳の御子 |
| 20 | 安康 | 古城1号墳? 奈良市、中世の山城か |
「興」に比定 | 允恭の御子 |
| 21 | 雄略 | 高鷲丸山・平塚? 羽曳野市 |
「武」に比定 | 允恭の御子、ワカタケルか |
| 22 | 清寧 | 白髪山 115m、羽曳野市 |
- | 雄略の御子 |
| 23 | 顕宗 | 築山? 210m、大和高田市 |
- | 父は履中の御子 |
| 24 | 仁賢 | 野中ボケ山 122m、藤井寺市 |
- | 父は履中の御子 |
| 25 | 武烈 | 新山? 126m、奈良県広陵町 |
太子がいなかった | 仁賢の御子 |
| 26 | 継体 | 今城塚? 190m、高槻市 |
治定は太田茶臼山 | 応神の五世王 |
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倭国王武の中国皇帝への使節団
- (参考:都出2011)
- 古代日本(倭)に関する中国正史(「宋書倭国伝」)は、478年に倭国王武が宋に使節を送ったと述べている。
- 古墳時代中期において、日本の中央政権は中国王朝に使者を送り、高位の将軍称号(将軍)を要求した。
- 倭国王武は雄略天皇であったと推定されている。
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武による申し立ては次のことを含んでいた。
- 「私の父祖は日本列島』と朝鮮半島の216ヵ国に征服戦争を行い、その国々の支配権を得た。」
- 「私は日本列島と朝鮮半島のほとんどの責任のある大将軍に任命するように要求する。」
- 南宋は武に安東大将軍の称号を与えた。
- けれども、南宋が庇護する百済を支配することを武は許されなかった。
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5世紀の東アジア情勢
- (参考:都出2011)
- 東アジアの5世紀は動乱の時代だった。
- 4世紀初め、西晋は北方民族に侵略されて中国南部に逃れ、東晋を立てた。
- そのあと、中国北部では小国が興亡をくり返した。(五胡十六国)
- 朝鮮半島北中部の王国である高句麗は、中国王朝からの抑圧から解放され、国力を増した。
- それから、朝鮮半島の政治情勢はたいへん不安定になった。
- 百済は高句麗の南下を予期し、東晋に朝貢した。
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宋王朝に朝貢した倭の五王の目的
- (参考:水谷2019)
- 5世紀の倭の五王たちには、宋王朝への朝貢に二つの目的があったようである。
- 一つは朝鮮半島での軍事行動についての是認を貰うことであった。
- もう一つは国内の権力基盤を強固にすることだった。
- 488年に完成した『宋書』には宋王朝に朝貢した5人の王についての記録がある。
- 420年、宋王朝がひらかれ、その同じ年に高句麗は朝貢した。
- 次の年(421年)、倭王讃が宋王朝に朝貢した。
- 讃の後継者である珍が438年に宋王朝に朝貢し、彼は「安東将軍倭国王」に任じられたが、高句麗の王はすでに倭王よりも高い格の将軍に任じられていた。
- 倭王珍は配下の13人のに称号を与えるように求めた。
- 他の倭王たち(443年の済、462年の興、478年の武)も宋王朝に朝貢した。
- 倭王武の頃には、王は相当な政治力を獲得し、また朝鮮半島からの技術者や知識人の数が増加し、倭国の国力は増大した。
- 宋王朝は479年に滅亡した。
- 倭の五王たちは、宋王朝に朝貢することにより、彼らの権力を確固たるものにすることに成功したようである。